浅井長政の居城だった小谷城は山城のなかでも当時最強とされていたが、織田信長によって攻め落とされてしまう。
この戦いで力を発揮したのが羽柴秀吉の土木戦略、これまでは不落とされていた山城もこの一戦によって戦略の転換を余儀なくされる。

その後、安土城や大阪城、名古屋城、姫路城、熊本城などの城郭建築が主流となっていくわけです。その城郭建築の要ともいえる巨大な石垣を建造する石工集団が穴太集(あのうしゅう)と呼ばれる石積みのプロ集団。
当時の石垣は野面積みといわれるものが主流でしたが、驚くことに当時の野面積みの石垣は現在の土木技術にも匹敵するほどの強度をもっていました。

それは地震の多い日本で培われた技の結集ともいえますね。この穴太集の技は現在にも引き継がれています。

→→信長も重用した伝説の石工集団『穴太集』